京都で金色に輝く金閣寺を見て回ろう

金閣寺を観光する前に知っておきたい旅行情報

悠久の時を感じさせてくれる京都の街にその存在感がある場所ですね。
京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で創建されたのは今より800年ほど昔になります。創建当時は藤原公経の山荘として使われていたという何とも贅沢なつ造りの建物である。
時の権力者としてその当時の権威である朝廷と鎌倉幕府の連絡係として栄華を極めていた時期でもあります。

私個人は中学生のころに修学旅行で訪れた場所で京都といったらココというほどに当時の教科書から受けるインパクトはすごかった記憶があります。

実際の金閣寺を見た時は遠くから徐々に近づいてくる金色の建物の優美な姿に何か見つけた感がありました。 歴史的な背景よりもその姿に圧倒されてしまうものが京都の社寺にはおおいです。 建設されたその建物自体もその当時の宗教や権力的な背景を投影している作りであったりして金閣寺の説明を聞いているとそれだけでいろいろと学ぶことができます。

現在見ることができる金閣寺の姿は、幾度もの修復を得て最後に再建されたのは1950年に放火事件に巻き込まれ完全に焼失したあと1952年から3年をかけてそれ以前に解体修復された際に使用されていた図面をもとに今の姿まで修復されることとなりました。 ことでそれまで国宝に指定されていた舎利殿は指定から外されることとなってしまいましたが金銅鳳凰に関しては焼失の際に外されていたためにそのままの姿を今に伝えています。
金銅鳳凰は1999年に重要文化財に指定されています。

金閣寺の舎利殿のところ以外にも観光で楽しむことができる場所が多くあるのでそちらもこのサイトの中で紹介したいと思います。

yahoo辞書より抜粋

京都市北区金閣寺町にある寺。金閣寺と称し、銀閣寺(慈照寺(じしょうじ))とともに一般に広く知られている。北山(ほくざん)と号し、臨済(りんざい)宗相国寺(しょうこくじ)派に属する。

本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。もとこの地には西園寺(さいおんじ)家の山荘北山殿(きたやまどの)があったが、1397年(応永4)足利(あしかが)3代将軍義満(よしみつ)がこれを譲り受け、金閣などの殿楼を造営したのが、その始まりである。

1408年義満の没後、遺命によって子の義持(よしもち)がこれを禅寺に改め、夢窓疎石(むそうそせき)を請(しょう)じて開山とし、いまの寺名をたてた。この寺名は、釈迦(しゃか)の最初の説法の場所である鹿野苑(ろくやおん)からとったものである。当時は紫雲殿(しうんでん)、天上間(公卿(くぎょう)間)、拱北楼(きょうほくろう)、金閣、反橋(そりはし)、芳徳(ほうとく)殿、天鏡閣、泉殿、護摩(ごま)堂、懺法(せんぽう)堂、舎利(しゃり)殿、小御堂(みどう)、地蔵堂、看雲(かんうん)亭、塔、輪蔵、鐘楼(しょうろう)、総門、四足門などが備わり、壮観を極めたが、のち紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺(けんにんじ)に、懺法堂は等持寺(とうじじ)に移転された。

また文正(ぶんしょう)年間(1466〜67)小御堂が炎上し、そのうえ応仁(おうにん)の乱(1467〜77)で芳徳殿など多くの堂舎が破壊された。しかし、天正(てんしょう)年間(1573〜92)の不動堂の再建に始まり、夕佳(せっか)亭、方丈の造建など徐々に堂舎の修理、復興が行われ、1904〜06年(明治37〜39)には金閣の大修繕がなされた。

現に、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがあり、方丈には本尊の観音(かんのん)像のほか、夢窓疎石、足利義満の像がある。中心となる金閣は三層楼で創建当時のまま現存していたが、1950年(昭和25)放火によって焼失。現在のものは55年に同じ様式で再建されたものである。初層は平安後期の寝殿造に擬し、中層は鎌倉期の武家造、上層は仏殿造で唐様(からよう)を用い、各層に変化をもたせるとともに、内外すべて漆地(うるしじ)に金箔(きんぱく)を押してあるが、三十有余年を経て剥落(はくらく)や傷がひどくなったため、86年2月より大規模な修復工事が行なわれ、87年10月に創建当時の姿をよみがえらせた。

庭園は特別史跡・特別名勝。1994年(平成6)、鹿苑寺は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

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